<「BOSS THE NK+OD」①>
「おい!お前!続けてアリアまで歌ってみろ!!」
と私が大声を出すと、工員全員の視線が私に向けられた。私は大臀筋と大腿二頭筋に人差し指の電極を刺し、加速状態にしてから全速力で階段を駆け上がり、彼女を捕獲しようとした。スタートした瞬間にゴールに飛び込んでいる感覚。彼女は「うわーっ!!うわーっ!!こいつ誰スかっ!!工場長~!」と叫びながら、座っていた天井の張り出しから脱兎のごとく工場の最上フロアに飛び移り、つまり、私と同じコースに乗った。
工員たちは2フロア下、遥か後方にいた。おかしい。おかしいぞ。捕獲できない。今私は、瞬間的にだが、時速70キロ弱、100メートルを6秒切る速度を出している。ベン・ジョンソンがドープして出した世界新のタイムより早い。しかし、私と彼女の距離はほとんど縮まらず、心拍数は焦燥感と共に無用に上がり続けた。「おい待て!」「嫌だー!!来るなー!!怖いじゃないスかー!!!」「怖くない!警察やお前の家族の回し者じゃない!!待て!!」「あっち行けじゃないスかーーーっ!!あっち行けーーっ!!」
いわゆるズタ袋のような、頭からすっぽり被る、コーヒー豆の入荷袋のような端切れを縫い合わせた服を着た彼女は裸足だった。私は姿勢を14度前傾させ、空気抵抗を最少にして、3秒で彼女の背後に着けた。タックルして抱きとめないと危険だ。行く手は鉄門の行き止まりになっており、複雑に入り組んだダクトがむき出している。この速度のまま突っ込んだら致命的な骨折が避けられないだろう。
「待。て。」「うひゃーじゃないスかっ!!」私の右手が彼女のズタ袋の端に引っかかった瞬間、彼女は視界から消えた。私の掌には巻きスカート部にあたる布切れが残った。急停止してその布を確認すると同時に、ボッスーンという音が聞こえ、辺り一面に強力粉の白い粉が舞い上がって視界を遮った。飛び降りたのだ。
「くそ!」と小さく叫んで、私は階下を見下ろした。そこは業務用のパン生地がロット管理される前にプーリングされている、巨大なステンレスのタンクがあり、トラックの荷台のように開放されていた。そこに満たされているパン生地の中央に、大きな窪みが出来ている。
胸を刺されるような緊張感が走り、そこにいた全員が息をのむ中、「工場長~。ごめんなさいじゃないスかあ~~~うあ~~」という、のんびりした声が聞こえてきた時には、捕縛されていたのは私の方だった。屈強な工員たちが4~5人がかりで私を押さえつけている。
「なんだテメエ!!」「あいつに何する気だ!!」「あんた誰スか~!」「落ち着け!私は怪しいもんじゃない!!、、、、いやあの、皆さん落ち着いてくださいよ。落ち着いて。痛たたたたた!ちょ。手を離して下さい。手を離して!ね?乱暴はいけませんって(笑)」。その気になれば一瞬で振りほどける程度に、彼らの捕縛は力任せで雑なものだった。しかし、今は菊地くんとして振舞わないといけない。私は痛がりながら笑って
「痛い痛い痛い痛い!(笑)。スンマセンスンマセン(笑)。あの、、、違うんですよ、、、、、本当に怪しいもんじゃないんです。アタシは、、、あの、、、えーと、、レレレレコード会社の人間でして、、、痛たたたたた(笑)。ちょっとお、手だけ離して下さいよ~。名刺出します名刺、、、、、出せないでしょ、こんな、皆さんで一挙にぎゅーぎゅー押さえつけられたら(笑)ねえ(笑)」
視線の先には、彼女がパン生地の中から救出され、工場長と思しき老人にしがみついて震えているのが見えた。私がむしり取った巻きスカートの布地部分から片脚が露出し、アスリートのように締まった大腿二頭筋が見えたが、彼女はまったく気にせず、それも使って老人にしがみついていた。「おい、お前、怪我はねえか?大丈夫か?」「(震えながら)大丈夫じゃないスか~。それよりアイツ、誰スか~。怖い~。工場長~」。
老人は最大に訝しげな顔で私を見た。私はスーツについた強力粉をはたき落としながら立ち上がって、彼女に近づいた。
「あのねごめんごめん。僕はねえ、全然あやしくないんだ。全く怪しくないの(笑)。ホントに(笑)。追いかけて悪かったよ。君が逃げたからさ。慌てて追いかけちゃったの。ははははははは。ちょっとさあ、あの、そちら、工場長さん?ですか?自己紹介させてくださいよ~。ね?あらあ、君、粉まみれのパン生地まみれになっちゃったねえ(笑)、芸人さんの障害物競走みたいだ(笑)、うははははははは。君、元気だねえ。ここで働いてるの?(笑)」
「工場長~(泣)」
「大丈夫だ。怪我なさそうだな、、、、、おい、お前、何もんだ?」
「アタシはですねえ、あのうー、実はアレです。レコード会社の新人発掘部の者で」
「レコード会社?レコード会社って、、、、どこだ?」
「えとあの、、、、SONY!SONY知ってるでしょ!世界の!!」
「SONY?じゃあお前、SONYの社員なんだな。名刺見せろ」
「いやあの、アタシはSONYの社員じゃあなくてですね(笑)、、、、なんていうかな。あのう、そのう」
「何言ってんだ、あっやしい奴だな~」
「信じられないじゃないスか」
「わかったわかった。じゃあ、じゃあ、どなたかスマホかタブレット持ってませんか?アタシ名前言うから、検索して、写真と比べてください。あの、左手にね、墨も入ってっから、その記事もあるから。インターネットに。パスポートも保険証も持ってますから。ね?とにかく手を離してくれませんかね~。腕が折れちゃうもん、ね?へへへへへへへへ」
* * * * *
その種の萌えどころがある女性だったら欲情さえしていたかもしれない、屈強な工員の、不器用で力任せのグリップが放され、数分後に私は菊地くんの身分として照合された。工員の中にはTBSのリスナーもおり(菊地くんの番組のリスナーはいなかった。工員の朝は早い)、女子アナの話やタモリ倶楽部の話などをして、我々は数分ですっかり意気投合し、私は淹れたてのコーヒーと、焼きたての、中にクリームを詰めていないコロネを貰った。
彼女だけがまだ訝しがっていた。しかし、工場長は内心で喜んでいたようだ。「おい、有名な方がお前をスカウトに来たぞ(笑)、、、その、、、お前がどうするか、話は俺も聞いてやっから、、、、、とにかく奥で顔洗ってこい」
私は、菊地くんにどうやって報告するかを考えていた。実に君好みのシュチュエーションだよ。パン工場にいた。ははははは。と、私の心拍数は、なかなか戻らなかった。
しかし、顔と髪を洗って、汚いセーターとスカートで現れた彼女を見ると、私の心拍数は、またもや急激に上がった。彼女は私の知人だったのである。
「うわちょっと!小田さんっ!ええええええええええ!小田さんなんでこんな所、、、、いや失礼、あのう、、、こんな所っていうのは、、、あの、、、パン工場は素晴らしいですよ!素晴らしいです!!そうじゃなくて!小田さん何で?」
小田朋美さんの演奏も歌も、私は勿論よく知っていた。「シャーマン狩り」は菊地君に貰っていたし、DC/PRGでのプレイも何度か会場で聴いている。しかし菊地くんから聞かされていた小田さんは、クラシック作曲家に特有の、多少のヒステリー傾向があるだけで、縞性で重篤な健忘症とか、解離性の多重人格者ではない筈だ。それとも、菊地くんとて、仲間の精神障害は私にさえ話さないでいたのだろうか。私は少々恐ろしくなった。
「小田さん。小田朋美さんですよね?、、、だからバッハを、、、、ほら、僕ですよ、、、あっれ?、、、いやだなあ小田さん、逃げたりして(笑)」
「工場長~(泣)」
「なんだお前、ちゃんと小田って名前があんのか?」
「知らないじゃないスか~。こいつ気持ち悪い~」
「え?小田さんじゃないの?、、、ちょっと、、、、あの、小田さん、、、、、はははは。ふざけるの止めましょうよ(笑)。僕ですよ僕」
あ、しまった。何か事情があるのかも。私は、一瞬息を飲んだ。しかしどうやら、彼女は嘘をついていない。小田さんの過密スケジュールを鑑みるに、工員たちと懐いている時間などある筈がないし、顔と声と脚の筋繊維の状態、つまり外面の形状以外は、全くの別人としか思えなかった。
「小田って誰スか~。全然知らないじゃないスか~。お前、早く出て行け~(泣)」
彼女は泣き出し、私は3度目の戦慄を感じた。こいつは。小田朋美さんじゃない。
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