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BOSSの回想録(30)



  <「BOSS THE NK +OD+菊地成孔」⑤>



 以後のことは全て、InstagramとTwitterにある通りだ。ODはなぜか、雨の日に車に乗ると酔うとか、ボクシングの才能があるとか、自己申告通り、ピアノの演奏技術が高いとか、男装(インスタグラムにあるスーツ姿、タイドアップしたシャツ姿は、菊地くんが私のために用意した物をそのまま着ている)からキャットスーツまで何を着せてもショーモデルのように抵抗なくどんどん着て、みんな似合ってしまうとか(これはスタイリストとしての菊地くんの天賦の才もあると思うが)、パン一斤を食べながら何でもできるとか、我々のビートメイク以外にも、菊地くんの優秀な教え子たちがビートメイクしてくれているとか(彼らは最近、タイプビートのメイキングチームを作って、旺盛に活動している。彼らと我々はシンジケート関係にあるので、今後しっかり紹介してゆくことになると思う)、「デギュスタシオン」からガンダムまで、菊地くんのほぼ全作品を製作している株式会社「耳たぶ」が我々と全面的に協力関係を結んでいるとか、スカートの澤部氏を小田さんがヘッドハントしてきたとか、世に群雄は割拠しており、菊地くんはよく「歩いてれば誰か集まってくる。桃太郎ってのは、あれはすげえ童話だ」と言っていた。


 菊地くんは、彼らしくもなく、我々の活動ペースを三カ年計画という、彼にとっては永遠に近いのではないか?というロングスパンでコントロールしていた。我々はいくらでも活動できるのだが、「菊地くんと小田さんが設定でやっている」という態を遵守するため、彼らの多忙期には、我々は活動を止めてここで隠遁していた。「ヴァンドーム」と「構造と力」の時と逆だ。


 小田さんは、表向きに誰でも知るように、先ずはDC/PRG(後に「花と水クラシックス」「SONG-XX」)のメンバーだが、それよりもはるかに、ceroのサポート、クラックラックスの旺盛な活動、三枝伸太郎氏とのニュークラシック系の活動、表向きではないが、CM音楽、テレビドラマの音楽等々、多忙を極めていた。そして、菊地くんの病的な多忙さは読者のみなさまもご存知の通りだろう。そんな二人が別名でバンドをやっている、という設定には、無理とは言わないが、かなりの制限がある。


 この回想録の初回か2回目に書いた筈だが、菊地くんは、SONYからのレーベル閉鎖勧告も、TBSからの打ち切り措置も、直観で予想していた。私の筆を使って菊地くんの言いたいことを代筆するのは善しとはしないが、未だに菊地くんは知的で策略的なパーソナリティかつスノビストのナルシシストだと思われがちだが、ナルシシズムは人類という生物の属性として菊地くんだけが特別高いはずもないとしても、本人と一緒に3~4日一緒にいれば、彼がかなり獣性の高い人物だとわかるだろう。私は彼が記憶喪失になって、全ての書誌学的教養、音楽理論を失っても死なないと思うが、直観や天啓を失ったら一ヶ月で死ぬと思う。彼は「デビュー年にアルバムはいいや。翌年にする、それでその翌年には、、、、」と言った。


 私はここまで書いた理由に従って「二人とも忙しいからな。でも2019年だって忙しいのには変わりないだろ?」と言った。そのとき菊地くんは、遠い目で、爪を噛みながら「いや、19年は、暇になる気がすんだ。少なくともオレは」と言った。



 「19年の6月でオレ56になるだろ。そのぐらいだよ。ファーストアルバムは。オレの50代後半にはミッションがある。自分の演奏を日本全国、世界各地に持ってゆくことだ。55まで、オレは東京にいて、聴きたければここに来い。という態度をとり続けた。もしオレがハイプでスノッブだとしたら、その点だけだ。それは認める」


 「罪悪感は?」


 「ないね(笑)。音楽以外の事にありすぎるからか知らねえけど(笑)。音楽をやるときは、あの闇のない晴天の世界しかオレは知らねえ。パニック障害の時でさえ、親がくたばった時でさえ、演奏の時は晴れてた(笑)」



 彼の近くにいた人間として文責を持つが、この段階では、SONYもTBSも、彼を放出する予兆もなかった。全ての関係者が、全てがあと何年も継続すると信じきっていた中、菊地くんは私にコンタクトを取り、三カ年計画を開陳したのである。


 菊地くんも何度も書いているが、ソニーは、TABOOレーベルの最後のアイテムとして、スパンクハッピーを強く望んだ。だが彼は決然とこれを拒み、ビッグカンパニー的には海のものとも山のものとも分からない新人であり、菊地くん的にはデモテープの1曲目の冒頭4小節で完全にその才能を信用しきっているオーニソロジーを世に出す事に全てのチップを置いた。おそらく彼は、自分が死ぬ時も、天啓によって、誰よりも早く、予め知るだろう。


 次回でこの回想録を終えようと思う。フジロックから先のことはインスタグラムにある通りである。最後に一つだけ。4月から我々は、この倉庫での共同生活を終え、ここは家具調度ごと引き払い、都内に別々のマンションを借りる事になった。


 つまり、この回想録は、我々の、ここでの共同生活が終了することを前提に書き始められていたことがお分かりになっただろう。これはノヴェルではない。なので過分に湿っぽいことは何もない。私も菊地君も、ODをはっきりと愛していたが、共同生活によって、あるいはその終了によって心理的に何かが変わる。といった事はない。我々は本格的なデビューに備え、あらゆる角度から検討した結果、一般社会人の生活に寄せる事が妥当と判断するに至った。ODのマンションは、小田さんのマンションの部屋の上の階になった。


 たった今、川崎の工場からODが帰ってきた。



「ボスボスー。ただいまデス!お借りしていたDJの機械は完璧にマスターしたじゃないスか~」



 ODは不自然なぐらいに自然にローラースケートを履き、パイオニアのCD-Jと食パン一斤を頭に乗せ、練習中のフィギュアスケーターのように、倉庫の敷地内ギリギリを滑走し始めた。ODが寂しがった事といえば、これだけだった。